ここで働いています

2012年12月19日水曜日

医学部での授業2:また思い出しちゃった

 
医学部での授業。
なんか知らんが、またよみがえってきた。

50歳の男がどう死ぬか。それについてみんなと考えたい。そう始めたら、何も進まない。

ある学生が手を挙げていう。

「どうして50歳なんですか?」

そこでつまずくか?
小説読みながら、主人公が50歳だと? なぜ50歳なのか? そんな風に考えるのか?
そこで作家に質問の手紙を書くのか?
そういう読み方もあるかもしれないが。

そんな質問をする暇があったら、どうして問題集を広げているのかと、同級生を問い詰めるべきではないのか。

「困ったな。もうやめようかな。どうする。続ける元気がなくなってきたんだけど」

正直にそう答える。
5秒くらい黙っていたら、なんとなく静まったので、予定通り続けることにした。

それにしても、だ。

自分自身に対するこの寛容さと、他人に対するこの厳しさのギャップは何か。

これは深く考える価値のある問題だ。

自分自身に対するこの厳しさと、学生に対するこの寛容さのギャップは何か。

こんな問題はさして考える必要はない。

ここには何かが現れていると思う。
象が現れている。

安部晋三が本当に総理大臣に復帰する。
この2つはつなげることができるような気がする。
 

2012年12月7日金曜日

医学部での授業:いったいどうなっていくのだ

 
ある関西の医学部での授業。もう5年目くらいになるだろうか。

2年くらい前は、最前列の端っこの席で2人の女子学生が延々おしゃべりしていて、まあそんなこともあるかなと。

昨年は最前列の端っこに座る学生が授業を始めますと言っても、なんだか問題集を広げてそれを黙々と解いている。それなんですかと質問すると、なんの悪びれる様子もなく、CBTの問題集ですと答える。いやそうではなくて、とりあえず授業を始めるのでちょっとこっちに集中してくれないかなという意味で質問しただけなんだけど。そんなことは何も伝わらない。

そして今年。最前列の中央にいる学生が机の下で携帯をいじっている。机の上は何かの問題集とそれの答えを書くノートらしきもの。最前列に限らず、大部分の学生がなんだが問題集を机の上に広げて、黙々と問題を解いている。私がマイクを手に話し始めても、その雰囲気はあまり変わらない。

ただ、質問しながら、マイクを向けるとそれなりに答えたりはする。結構面白い答えもある。それはあまり変わらない。

しかし、経時的な変化を振り返るに、年々症状は悪化している。どんどん授業がやりにくくなっている。学生との関係をどう取っていいのかわからない。

これはいったい何を示しているのか。

安部晋太郎の息子がまた総理大臣になるというような世の中と連動しているのか。
石原慎太郎が国政に復帰するというような世の中と連動しているのか。

阿部慎之助のバッティングはすごいが。

のはらしんのすけは永遠だ。

なんだか頭がおかしくなってくる。


ここの医学部は何か特殊な集団なのだろうか。
そうではない気がする。

もちろん自分だって学生時代に授業を真面目に聞いたことなんかないんだけど、何かずいぶん雰囲気が違う気がする。もちろんそれは単なる自分のやってきたことには肯定的で、他人には厳しいというだけかもしれないが。

しかし、自分の時代は、最前列で携帯をいじってるなんてことはなく、そういうときは誰も授業に出ていないという状況だったと思う。どっちもどっちかもしれないけど。

来年も授業をすることになると思うが、一体どうなっているのか、楽しみのような恐ろしいような。
 

2012年11月21日水曜日

患者によって自分を変える

 
クリニックで研修したある医学生からの手紙。
子供、大人、インテリ、どんな患者にも分け隔てなく接しているところが印象に残ったと。

患者によって自分を変え、差別のない医療を提供する。
そこだけは外さないようにと、やっているつもり。

少しはできているのかもしれないと思う。

しかし、差別をしないという点では行けてるかもしれないが、どの患者に対してもワンパターンで、患者によって自分を変えているとは言えないのではないか、そういう気もする。

確かにそうかもしれない。しかし、多分そうではないのだ。
少しは自分に自信が持てるようになった。

患者によって自分を変える医師というのは、外から見たらどのように見えるのか。
多分どの患者に対しても同じように接しているように見える。ちっとも変ってないように見える。

外から見ると患者によって対応が変わっているように見える医者は、自分が変わることができないために、患者によって容易に態度が変わってしまい、相性がいい患者や好みの患者と、相性が悪い患者や好みでない患者で、違った医師のように対応してしまう。
それは、患者によって自分を変えるのではなく、患者によって自分が変わってしまっている、自分をコントロールできていない状態に過ぎない。

それに対して、どの患者にも同じように接しているというのは、好みの患者もそうでない患者も、外から見れば、まったく同じように接しているように見える。これは、自分がコントロールできて、患者によって自分を変えることができているからだ。

ちょっと自慢してみた。

2012年9月10日月曜日

「病院の世紀と理論」読んだ

 
途中まで読んで、しばらく手を付けられずにいた。
なぜだかよくわからない。

ちょうど似たようなことを考えていたのかもしれない。
全然レベルが違いますが。

大雑把な要約をメモ代わりに残しておく。

<病院の世紀>

所有原理型システム
プライマリ/セカンダリの不分離
プライマリの現場にも自前の病床

西洋医学を実現する施設としての病院

医学士が開業する流れ
下位学歴供給停止

公的病院の脆弱性

公的病院医師は都市に偏在し、むしろ開業医が町村やへき地を支えた

開業医の経営上の優位性

公的医療機関が医療を担わないと医療が崩壊するという説は事実と整合性がない

<病院の世紀の終焉>

合理的な治療の提供の重要性、それに対する期待

その重要性、期待の減少

長寿の達成
生活モデルに基づく医療提供

健康概念の変化

包括医療サービスの必要性

プライマリ現場での医師の役割の変化

急性期治療の重要性は変わらない
包括ケアをどう付け加えるか

医師の脱専門職化
権威を基盤としない信頼関係

病人が寝る場所としての病床、患者のための病床
隔離のための病床との対比
所有原理型システムに依拠した社会的入院

1920年の世界に日本人が戻っても、イギリス型でもなく、アメリカ型でもなく、日本で医療を受けるとき一番安心できるだろう、そして、それが正解だと。

めちゃくちゃわかりやすくて、唖然とする。

100年維持された仕組みは強固だ。
それを変えようというのは並大抵のことではないという気もする。
しかし、終焉が必然だとすれば、あとはもう変わる以外に道はない。
だから、きっとうまく変わっていくはずだ。

自分も何かの役割を果たせれば。
 

2012年9月9日日曜日

「夢売るふたり」続き

 
やっぱりどうしても昨日見た映画がどこか引っかかっていて、
頭の中でいろいろなことがぐるぐるまわしになる。

夫婦が長く生活を共にするのは、奇跡のようにも思えるし、当たり前のようにも思える。

みんなめちゃくちゃ頑張って生きるのだが、どんどん目的から遠ざかるようなことばかり。

カナダへ行く資金を簡単に差し出して、
ひざを痛めて競技が続けられなくなることをむしろ望んでいたりして、

主人公の夫婦も新しい店を始めるのが目的ということにはなっているが、それもまた横並びの一つの出来事にすぎないように思える。

で、何を思うかというと、自立して頑張るのはやめよう、ということなのだ。

自分でやりたいと思うことはできるだけやめよう。誰かに頼まれたことだけをやろう。
とりあえず、そうきりをつけることにする

「夢売るふたり」

 
「ディア・ドクター」で一撃を食らって以来、待ち望んだ、というか待ち望んでいないというか、西川美和監督の新作。
またやられた。

見終わった後のこの不快な気分はなんだ。

なれの果て、なんとなくそういうコトバが浮かぶ。
でもちょっと違う。そこで終わる感じでなく、また延々続いていく。

自分自身、結婚25年を過ぎたが、そういうなれの果て、というか、あるがままというか。
しかし自分に引き付けて考えるとまた大変なことになりそうで、あまり自分のこととしては考えないようにしなくては。

「ディアドクター」では、自分に重ねていろいろ考えて頭がパニックになった。またそういう直感があって、そういうことを躊躇する。

本当に何も知らないまま、何も意識しないまま生きている。
まあ考えるのはそこまでにしておかないと。

といいつつやはり考えてしまう。

不倫OL、ウエイトリフティング女子選手、風俗嬢、小さな子を連れた未亡人、などというのはあまりにべたな設定ばかりだが、それにも関わらず、なんだこの気味の悪さは。

ウエイトリフティング選手をだますとき、これはさすがに無理でしょう。あなたがかわいそう、と夫に言うのだが、逆に本当に好きになってしまうのではないかと恐怖する感じと、その両方が見事にあぶりだされている。妻の対応が、人間のありようそのままというかなんというか。

うまく書けない。またしても。
 

2012年7月23日月曜日

男と女の産み分け

 
男と女の産み分けについて、ちょっと考えてみた。

女の子じゃないといや、男の子じゃないといや。そういうことの延長上に、背の高い子じゃないといや、スポーツができる子じゃないといや、頭のよい子じゃないといや、と多分きりがなくなる。

産み分けたいという人は多分きっと産んでからも同じ問題に直面するだろう。こんなはずじゃなかったと。

思うようになる人生なんてのはたいしていいことない。思うようにならない中にこそ、何かがあった、そう思う。

産み分けたいと思う人は、思うように人生を生きられた人なのだろうか。思うように生きることのなれの果てが、産み分けしたいというような袋小路につながっているのだと思う。
生まれた子供は、思う通りになってほしいと思うような親の思うようにはならない。と書いてみて、これがまた、思う通りの子供に育てたりするのだろうな。

なんだかよくわからんが、思うようになんか生きなくてよい、生きるべきでもない。それだけは確かだ。

2012年7月13日金曜日

構造主義医療の挑戦:メモ


構造とはコトバとコトバの関係を記述したものの総体だと。
科学もこの形式によって記述されるし、文学だって例外ではない。

ただ物理や化学などの厳密科学は、時間を捨てることによって同一性を担保したコトバによって記述されるのに対し、文学はむしろ同一性が捨てられ、時間を生み出すコトバによって記述される。

医学や生物学は、その中間で、時間を捨てたコトバと時間を生み出すコトバの両方で語られる。

コトバにおける時間と同一性、そういう視点で見るだけで世界が変わる。

構築するとは、コトバは世界を作るという立場だ。構築主義と言えばそういう方向である。
構造も、コトバで記述するわけだが、現象のコトバのギャップに焦点を当てながら記述するというのが構築主義とは異なる。

コトバのぐるぐるまわしにならぬよう、第一義は現象にあることを忘れない。

現象とコトバのギャップに迫らなければ、構造を記述することはできないが、コトバとコトバをつないでいくだけでも世界の一部は構築される。より構築主義的なナラティブの落とし穴はこういうところにある。

もちろん現象とコトバのギャップばかりに気をとられると、コトバ同士のギャップを見落としたりする。

とりあえず整理できたことのメモ。


2012年6月26日火曜日

学会の見解を無視するな


ちょっと面白い事件があった。
日本医事新報という雑誌に「その場の1分、その日の5分」という連載をしているのだけど、それに対するご意見。

おしゃぶりと乳児突然死との関連について、5分勉強した内容を書いたのだが、それについて、以下のようなご意見。自分自身としては5分の勉強でかなりいけたと思うのだが、なかなか厳しい。5分の勉強という言い訳を許さない勢い。おしゃぶりを取り上げながら、歯並びを悪くする害について触れていないのが問題だという指摘である。

日本小児科学会と日本小児歯科学会の検討チームは、おしゃぶりが児の歯並びに影響することを学会誌に発表しており(日児誌109(6):780-781)、小児科医の多くは患者にも説明するものと思います。歯並びが重大な害と考えるかどうかは患者さんによって様々であり、EBMの連載だからといって、またプライマリケア医だからといって、小児科学会の見解を無視した記事を書かれるのは、いささか問題かと思われますがいかがでしょうか?」


貴重なご指摘ありがとうございます。


しかし、学会の見解と異なるものが出るのを問題視することこそ、もっと大きな問題でしょう。
学会は様々な意見に対して、それを封じ込めるようなことをしてはいけません。

個人的なことで言えば、小児科学会にかぎらず、学会やそれに類するものから自由であるということが私の売りなんですけど。


ただこういう人たちがいるので私は次々面白いネタに事欠かない。本当はお礼を言うべきかもしれません。


今度は、おしゃぶりと歯並びについて調べてみたい。
学会の見解とは別に勉強するというのがいいのです。
これからも学会の見解とは異なる様々なネタを提供していきたいです。





2012年3月28日水曜日

医療行為と結果の分析:構造主義医療の実践

構造主義医療実践の基本的枠組みが完成した。
とりあえず忘れないように書いておく。

医療行為とそれがもたらす結果の分析を例に考えてみる。

メタボ健診を例にとろう。

・メタボ健診を受けるが受けないか
・日々の生活が幸せになるか

以上の2つの軸で4分割表を書いてみる。


    幸せ
メタボ健診 受診あり a c
受診なし b d


a: メタボ健診を受けて幸せな生活を送る
b: メタボ健診を受けず幸せな生活を送る
c: メタボ健診を受けて不幸な生活を送る
d: メタボ健診を受けず不幸な生活を送る

メタボ健診を勧める人はaとdを重視している。
勧めない人はb、cを重視している。

「メタボ健診は有効である」というコトバを考える際に、その背景の現象には、4分割表で明らかになるような状況が常にある。有効と言えない可能性がある中で、「有効」というコトバが世の中に広く伝えられるような、さらに基盤の構造はどのようになっているのか。

それも様々な軸で考えられるが、例えば以下の2軸

・メタボ健診を推進するかしないか
・医療費が減るかどうか

これを同様に4分割表で考えると、メタボ健診を推進する人は、推進すると医療費が減るという部分を重視しているという構造が見いだされるかもしれない。

さらに

・医療費を減らすか減らさないか
・国家財政が破たんするかどうか

そういう軸でさらに分析。

どこまで基盤に降りられるか。いかに多様な軸で考えるか。

まあそれだけなんだけど。

2012年3月3日土曜日

生きることは苦しみの連続だ、ということにしておく

楽しい人生が続くというのと苦しいことの連続だというのとを比べれば、楽しい人生が続いたほうがいいと思う。

でもその連続が、死ぬことで終わりになることを考えると、これはなかなか困難な問題だ。

楽しい人生、苦しい人生の2つ。
死の受容と拒否の2つ。
その2つの組同士での、4つの組み合わせで、人生を考えてみる。

苦しんだ挙句に死を受け入れる。
苦しんだ挙句に死を受け入れられない。
楽しい人生の後に死を受け入れられる。
楽しい人生の後に死を受け入れられない。

死を受け入れるためには、人生が苦しみの連続であった方が受け入れやすい。ああ、これでようやく楽になるのだと。

逆に人生が楽しいことの連続では、なかなか死を受け入れるのは困難だろう。

しかし、苦しみの連続なら死を受け入れられるというわけでもないだろう。苦しみの連続の中で、幸せになるまでは死んでも死にきれないというのもあるかもしれない。

でもやっぱり、楽しい人生を送りながら、死を受け入れることができたら、それが一番いいのかもしれない。

今の世の中は、楽しい人生を送るのが当然となって、いつまでも楽しい人生が送れるはずだというような勘違いが、普通の考えになっている。死ぬことは常にその楽しい人生の対極にあって、いつも遠ざけられている。だから、楽しい人生を送りながら、死を受け入れるのは、それほど簡単なことではなくなっている。

ずいぶん前、おそらく数年前のことだと思う。80代、90代と思われるがん患者さんが、「私はがんには負けません、絶対勝ちます」と何かの番組で語っていたのを思い出した。前後の脈絡はすっかり忘れてしまったが、その場面だけが今突然思い出される。

そこで起きていることは、今日の分類に従えば、もっと楽しい人生を送りたい、苦しみを乗り越えて再び楽しい日々を取り戻したい、そういう人たちである。共通なのは、死を受け入れられないということである。

ここで考えたような4通りの人生を想像したとき、一番実現性が高いのは、人生は苦しみの連続だけど、死ぬまでのことだから頑張ろうというような生き方ではないかという気がする。

というわけで、人生は苦しみの連続である、ということにしておこう。

2012年1月31日火曜日

理系の時間と文系の時間

「コトバは時間を生み出す形式である」

この当たり前のことがずいぶん長い間わからずにいた。わかった後もこれは大きな気付きではないかと勘違いしていた。

理系の思考法は、対象の時間を止め、同一性を担保することで話を進めていく。そうでなければ話が通じない。

胃がんの診断は、採取された組織を標本にして、時間を止めた中で観察された所見でなされる。それが普通。しかし実際の胃がんは時間の経過とともに変化する。

それに対して文系の記述法は、時間の流れの中にある。
たとえば小説。小説によって書き綴られたコトバが時間を生み出すというのはあまりにも当然で、それはそれで、意味がわかりにくい。

TCAサイクルはブドウ糖が供給され続ける限りまわり続けるようなものとして記述される。一見時間があるように思えるが、これはいつまでも変化なく回り続けることを示していて変化しない、つまり時間もない、という記述の方法である。実際のTCAサイクルは、どこかでとまるのである。時間を込みにするというのはそういうことだ。

普通にコトバを使えば、時間が生み出される。
科学は時間を犠牲にして、同一性、普遍性をとった。理系の世界ではそれをむしろ当然のこととしているから、コトバが時間を生み出すということがわからない。

ただ文系のコトバで、同一性や、普遍性を議論するとなると、それ自体で1冊の本が必要になる。小説が必要だ。

学術用語と、自然言語の間にあり、時間を生み出しつつ、普遍性を持つ言葉で語ることができれば。

それは妄想だろうか。

2012年1月1日日曜日

年の初めに

年の初めにちょっとまとめておく。

話し合いとか、コミュニケーションとか、実はあまり役に立たない。
それは診察室でも実感する。

コミュニケーションが不足しているからうまくいかないというのは、半面コミュニケーションがうまくいけばということだろうが、それはコミュニケーションに過大な期待をかけ過ぎだと思う。

そこで重要なことは何か。コトバと現象のギャップの方である。


また目標を立て、それに向かっていくことが重要、それも全くの誤りだ。
成果主義は誤りである。
目標というのは私的なものにしかなりえない。


振り返りが重要、それもまた誤りだ。
振り返りとは、未来がなくなった年寄りが昔のことばかり思い出すというようなものだ。
経験から自由になることこそ重要なのに、ますます経験に縛られる。

これまでを一度否定したところから始めたい。

全体を取り扱うための方法の一つ。