ここで働いています

2011年6月26日日曜日

病院の世紀の理論

 
猪飼周平著、「病院の世紀の理論」。
まだ全部を読んでいないのだけど、読みとおさなければいけないと思っている。
生半可な本ではない。
「マロウンは死ぬ」を思い出したのはこの本のせいである。

20世紀の医療は、既定のレールの上を走ってきただけの必然であると。
プライマリケアだろうが、セカンダリケアだろうが、例外ではない。

道ははっきりと見えていた。そして、どこに向かっていたのか。治す、よくする、予防する。

そして21世紀。

キュアからケアへ。
分化から統合へ。

医療システムの問題は、医療の内部の問題から、全体の中での医療の位置づけという問題へと変わっていく。医療の役割はどんどん小さくなっていく。ケアとか統合とかいうと、医療の役割が大きくなっていくのだと勘違いしてしまうかもしれない。しかし、それこそ、これまでの必然のルートなのだ。

医療の役割は小さい、それが受け入れられるかどうか。それが医療者に求められていると思う。

マロウンは死ぬ

「マロウンは死ぬ」という小説を思い出した。寝たきり老人の小説。違うか。
高校時代の友人から、お前にぴったりの本だといわれて読んだ。
正確には覚えていないけど、主人公がつぶやく以下のような一節。

「かつては、道は全く見えていないのに、たどりつく先は分かっていた。それが今じゃどうだ。道ははっきり見えているのに、どこへ行くのかはさっぱり分からない」

読んだ当時、友人が言うには、前者はボクシングで、後者はプロレスだと。そして当然のように、われわれはボクシング派なのであった。

今から思えば、確かにそうだ。当時プロレスよりはボクシングだった。しかし、今はとてもボクシングだとはいえない。プロレスでもないんだけど。まあどうでもいいというかなんというか。でも、それはとても好ましいことのように思える。

見えないふりをするのは簡単だし、本当はたどりつく先なんてのは分かっている。その通り。ただ、死ぬなんてことを考えたこともないから。そんなのが何かかっこいいように思うのだ。

だから、道ははっきりと見えていると言おう。死ぬということ以外はさっぱり分からない、それでいいじゃないか。

でもそれがいいのだ。とりあえずそこにある見えている道を歩こう。道じゃないように思えるかもしれないけど、それが道なのだ。どこへ行くかは分からないけど、どこかへは行くのだ。そして、その先は例外なくみんな同じだ。

2011年6月18日土曜日

正しい情報とか事実とか

 
わたしたちは事実を知りたいだけだ、というような発言。
正しい情報を提供さえしてくれれば、正しい判断ができる、ということだろう。

企業は正しい情報を出していない、そんなことは当たり前だ。企業の情報提供は手段であって目的ではない。企業が正しい情報の提供を第一に考えるのは、手段と目的を履き違えているという面がある。企業からの情報は、企業からの情報だと知った上で判断しなければいけない。もちろん企業に高い倫理性を要求することも重要だが、それだけでは解決不能な問題だ。

しかし、国というとどうだろうか。
国は正しい情報を出していない。それが問題だと。まあそうなんだけど、それほど単純な問題ではない。ひとつは、国だからといって正しい情報が手に入るわけではない。そういう選別の必要は国だからといって省けるわけじゃない。正しい情報を国は手に入れているはずだというのも、あまりに楽観的な考えではないか。
さらに、国は様々な利害のある多様は国民を相手に、その調整をしなければならないのだから、正しい情報が手に入ったとしても、どう情報を操作するかというのは国の大きな機能だ。被災者を第一にといっても、その被災者が決して単一ではない。これは相当難しい作業で、だれがやってもそうはうまくはいかないと思う。

それでは学者や専門家はどうか。これがまたマスコミを通じて出てくるような人は企業や国から自由でないし、そこから自由だとしても、今度はその言っていることが本当に信用できるのかどうかというとよくわからない。

というわけで独自の情報収集ということになるわけだが、これがまた企業や国、専門家以上にわけがわからない。

しかし、この国や企業からでもない、必ずしも専門家でもないところからの情報のいいところは、はなから嘘かもしれないと思って情報と向き合っていることだ。

で、重要なのはここではないかと思う。誰かが本当のことを教えてくれるなんてことはない。あちこちから集めた情報を総合して、自分で考える、それが重要。
だから、企業や国、専門家を信じないというのは、常にそうあるべきであって、企業や国から正しい情報が提供されてよかったなんて思った時こそ危機なのだ。

正しい情報を提供しているのに患者がわかってくれない、医者はそんなふうに思いがちだ。
でもそんなわけはないのであって、これはむしろ正常な状況だ。
そういう中でしか、医者の情報リテラシーも、患者の情報リテラシーも育たないということは、正しい情報として唯一提供できるのではないだろうか。。




似た者同士

予防接種についての議論で考えたこと。
効果が副作用をはるかに優ることが明確な予防接種がなかなか普及しない。そういう状況で多くの人がイライラする。

治療の現場に目を向けると、それとはまったく逆に、新しい薬などがどんどん処方されていく。たとえば降圧薬。新しい降圧薬ほど普及が早い。またいったん処方された薬に副作用の危険があってもなかなかやめられない。糖尿病薬でのがんの発生なんて問題の情報の遅さ。

よく聞かれる意見に、治療の場合は、副作用に寛容で、治療効果がはっきりしていなくてもどんどん普及するのに、予防接種はどうして逆なのだろう。
どうしてこういう正反対のことが起こるのか。

しかし、これは正反対のことでなく、同じことが起きている。
この2つは実は似た者同士なのだ。

とにかく医療が普及した方がいい、そういう方向。
そしていつもそんなに普及しなくてもいいのにという方が少数派。

だから予防接種も徐々に普及していくだろう。そう心配することはない。

わたしが異常に感じるのは、予防接種の普及の遅さより、新しい治療の浸透の早さや副作用についての鈍感さの方である。
死亡例が出た場合に、副作用かもしれないと疑ってみるという姿勢はむしろ健全な面がある。ぜひ予防接種を見習って、膀胱がんの危険となったら、代替薬に切り替えるべきだ、というような議論がもう少しは起こってもいい気がする。

それを踏まえて予防接種について考えてみる。
予防接種後の死亡例が出たときに、確かに因果関係はない可能性が高いのだが、何の情報や研究も出ないうちに、これは因果関係はありません、というような発言が次々出てくるのを見るにつけ、これは治療薬の副作用に対する鈍感さと同じことが起きているように見える。こういう視点では、予防接種を普及させることはできるかもしれないが、危険な治療をスルーしてしまうかもしれない。

治療についても予防についても、私には同じ現象のように見える。

医療は普及した方がいいという、希望的観測、その点において、この2つは全く同じ構造をもっている。

2011年6月14日火曜日

言葉

時間にはそれぞれの人に固有の時間があるが、言葉に固有の言葉というものがあるかどうか。

私が発した言葉、という意味では固有の言葉であるが、誰かに通じない以上、言葉としては機能しない。だから言葉には固有の言葉というものがないという気もする。

私の言葉、あなたの言葉をやり取りしなければ、固有の時間を取り戻せないと書いたのだが、そもそも私の言葉とか、あなたの言葉というものがあるのかどうか怪しい。

しかし、そうは言っても、誰にでも通じる言葉というのは、私の言葉でもなく、あなたの言葉でもない。
たとえば「高血圧」という言葉。これは私やあなたに固有の言葉ではない。
誰にでも通じる言葉だけを話していては、その誰のものかわからない言葉によって、だれのものだかわからない時間を生きることになる。

言葉はそんなことのためにあるのではないはずだ。

通じるか通じないかよくわからないような言葉。そういうものが言葉であるはずだ。

言葉は時間を生み出す限り、その固有の時間に対応した固有の言葉となる。

通じにくい言葉で、何か通じること。誤解と何が違うのか、よくわからないが、わかりきった言葉のやり取りにコミュニケーションはない。誤解の幅こそコミュニケーションの源といったのはだれだたっけ、忘れてしまった。

同じで様で同じでない言葉を使う。

通じていないと思ったときこそ、コミュニケーションの始まり。

時間

 
人はそれぞれ固有の時間というものをもっている。
生まれて、生き、死ぬ、ということはその人固有の時間の中にある。

固有の時間と固有の時間が出会うことを偶然という。それは決して必然ではない。
必然と言うからには、それぞれの時間が固有のものでなく、お互い関係するものだという前提がある。

誰かとどこかで必ずぶつかるという意味では必然かもしれないが、それは誰でもよいし、どこでもよいぶつかりの一つに過ぎないと思う。

診察室で、訪問診療の場で、医者の固有の時間と患者の固有の時間がぶつかる。それもまた偶然がなせる技だ。

その現場において、言葉をやり取りすると、誰の時間かわからなくなったり、時間が止まったりする。

たとえば、「血圧高いですよね」と医者が言う時、患者が「脳卒中になるのは困ります」という時。

本当は、そこには固有の時間が流れているはずなのに、誰の時間だがわからない時間におきかえられている。さらには、時間は止まり、血圧を下げて脳卒中を予防するという一本道だけが設定される。そこには時間はない。

本当は「言葉は時間を生み出す形式」なのだ。
医学用語を使う時、それはお互いの固有の時間とは関係ない話をしているにすぎない。
それぞれの時間はそれぞれの自然の言葉を使わなければ表現できない。
しかし、診察室の中では、自然言語ですら、時間を失っている。

どこかに転がっている言葉ではなく、医者自身の言葉であり、患者自身の言葉で語られない限り、固有の時間は取り戻せないし、時間は動き出さない。

そんな言葉のやり取りができるように、診察室を、在宅の場を、準備したい。

2011年6月13日月曜日

のんびりと

子供のころに見た夢というのは、というより覚えている夢と言えば、とにかく逃げる夢であった。
いったい何から逃げていたのか。いまだによくわからない。

大人になってからは、そんな夢をほとんど見なくなった。そして、最近では夢そのものを見ない。

久しぶりに昨日見た夢は、自分がいつも寝ているように、自分の部屋で、自分の布団の中で、寝ている夢。

そう、そういうのが夢だったのかもしれない。

実は夢は見ないのだが、金縛りにはよく合う。
昨日の夢で、「金縛り」というものがどういうものか、なんとなくわかった気がする。逃げたい自分と逃げたくない自分。

もう逃げることはないと思う。

のんびりと腰を据えてやりたい。

2011年6月10日金曜日

すべては地域医療に

JIMという医学雑誌、「すべては地域医療に」という特集。
そのEditorialを読んだ。
いろいろなことを思い出した。

一体自分は何を思い出したのか。

これまで自分がしてきたことに対する、確かなよりどころというか、確かでないよりどころというか。
そこに書かれていることそのもの。

「地域医療とはなにか」、答えることのできない問いに、答えるひとつのあり方だ。
学生や研修医や、あるいはひとかどの人に、「地域医療って何ですか」と聞かれたら、ぜひこの文を読んでくれ、そう答えたい。


もうこれ以上、私自身が言い換えたり、感想を述べたりする必要はない。短い文だ。読めばいいのだ。何度も何度も読めばいいのだ。

わたしも、これから何度も読むだろう。

花を思う。

かつてそこにいた人、つまりは、今そこにいない人を思い出しながら、今そこにいる人と向き合いながら、生きている。そして、また、今そこにいる人自身も、かつてそこでないどこかにおり、今はここにいない一人のなれの果てとして、今にここにいる。

それもまた花と呼びたい。
 
そして、花を思う、のだ。
 

2011年6月5日日曜日

いまどこにいるのか

最初は、何か「自分らしい」というような一つの解答があると思っていた。

いくらでも選択肢がある。そして、正答などどこにもない。唯一「生きない」という選択肢を除けば。そう思えるようになった。
生きるというのであれば、もうそれでOKだ。どうでもいいと言っていい。生きてさえいれば。

そこからスタートして、今や「生きない」というのも十分選択肢の一つだということが明確になる。むしろ、現代こそ「生きない」という選択肢をもって、「生きる」ことができる時代ではないか。

70になると姥捨ての山に行く、というような世の中では、どうしても山へ行くのがいやで、家族に無理やり道の途中で崖下へ突き落されてしまうような人が、不自然な人と描かれるように。

しかし、かつてと今では同じではない。山へ自ら行く老人と現代の自殺者、全く違う気がする。しかしそれでも似ているところがあるのではないかと、考えを進めてみる。

自殺者3万人。それは不幸なことだが、同時にどこかで「生きる」ことのあり方を示している。

100年たって、「毎年自殺者が3万人もいたのだ」と振り返られるような時代が来たとして、100年後もまだ、「かつてそんな不幸なことが」なんて反応されたら、それこそ立つ瀬がないのは自殺者ではないか。

政治家の靖国参拝では、戦争で死んだ人たちが決して救われない気がするのと同じように。

少しややこしいことになってしまった。

「死ぬのはよいことである」というような発言すら陳腐化しそうな世の中で、「死んでかわいそう」とかいうのはもう、思考停止以外の何物ではない。そこですべきは、思考停止ではなく、判断を停止して思考を開始することだ。

天皇陛下のために死ぬというのも、できるだけ長生きするというのも、実はとても似ている。
「大日本帝国が万世一系の天皇のもとにあった」と言われるように、「日本は世界で最も長寿の国です」と言われる。一方は死ぬことが美徳、一方は長生きが美徳。逆のように思えるが、ひとつの信仰のもとにあるという意味では似ている。わかりにくいな。

また、お国のために死になさいと教育された時代と、いい大学に入りなさいと言われる時代は似ている。方向は違うが構造は同じだ。

変わってしまった時代の中で、全然変わっていないことが、壁になってうまくいかない。

今、私たちはそういう場所にいる。
「そういう場所」についてしばらく考え続けたい。

2011年6月1日水曜日

あしたから始まること

 
あしたから一開業医としてスタート。
いったい何度目のスタートかわからないけど。

質の高い医療を提供すること。
それを記録に残すこと。
その記録を分析、統合、研究につなげること。
他人の研究もよく勉強すること。
その研究結果を医療に還元し、質の高い医療を提供すること。
そのサイクルを回すために教育に力を入れること。

一人の患者さんに向き合いながら、そこで起こる現象を研究し、後輩を教育する。その中で最善の医療を提供する。

最もコストをかけずに最善の医療を提供すること。
金をかけるだけかける医療というのは、コストをかけた分だけコストをかけない医療に比べて最善の医療から遠ざかる。

そして、それでもなおかつ事業として成り立つこと。成り立つだけでなく、できるだけ多くの職員を受け入れること。多くの人を育て世へ送り出すこと。

無謀な試みかもしれないが、挑戦してみることにする。

クリニック
診療支援システム ドクターベイズ
CMECジャーナルクラブ
それらをつなぐバーチャル研修センター

道具立ては揃った。
役者はどうか。
精一杯演じたい。

「全体を取り扱う方法を考えなさい」

師匠の言葉を思い出しながら。