ここで働いています

2011年4月10日日曜日

挽歌としての医療

 
また当たり前のことに過ぎないのだけど。

道半ばにして、去らなければいけないのは、誰しも同じだ。
残されたものとして生きる、というのも誰しも同じだ。

去った人は何を思うのか、生きていたとしたら。
去った人のことを思い、残されたものは生き続ける。
しかし、生き残った者もいずれ去るのだ。
そして、別のものがまた生き残った者として生きる。

生き残った者が歌う挽歌。

挽歌を歌うのは、生き残ったものだ。そして、挽歌を聴くのは誰か。挽歌というものは、死者に向かって歌うものだ、そういうかもしれない。しかし、当たり前のことだけど、死者は挽歌を聴くことはできない。挽歌を歌うのも、聴くのも、生き残ったものだ。

医療は死を語るときに、去るものばかりに向き合ってきて、残されたものに対する関心がいまだ怪しいのではないか。こういう非常事態になって、残されたものに向き合う必要性に改めて気づく。そんな体たらく。

挽歌を歌うのも聴くのも残されたものである。医療の役割として、それはとても大きなことではないか。地震を境に改めて明らかになったことの一つだ。
 

0 件のコメント: