ここで働いています

2011年3月25日金曜日

キュレーションとアウトサイダーメディスン

 
【キュレーション:無数の情報の中から、自分の価値観や世界観に基づいて情報を拾い上げ、そこに新たに意味を与え、そして多くの人と共有すること】

EBMにかかわる仕事はそんな仕事だったと思う。

佐々木俊尚の「キュレーションの時代」を読んだ。説得力ある。
医療もまた例外ではない。

広大なエコシステムの中のキュレーターとしての医師。
たとえば、高血圧の治療について。

「脳卒中を予防するって言うんだけど、5年間で10%の脳卒中の危険を6%に減らすくらいの効果なんだけど」、そんな視座の提供。

あとアウトサイダーアートについて書かれた部分。

まともな研修を受けずに、へき地医療、医学教育専任なんていう特殊な立場で働いてきて、私自身アウトサイダーの1人だろう。しかし、そのおかげで、「生の芸術」というように、「生の医療」なんてとてもいえないけど、まあそういう方向で仕事をしてきたような気がする。

これまでやってきたのはアウトサイーダーメディスンだった。
アウトサイダーには優れたキュレーターが必要だ。アウトサイダーでありながら、キュレーターであるというようなことが可能かどうか。

医者として、キュレーターでありながら、アウトサイダー、そんな無謀な試みにかけてみたい。
 

2011年3月24日木曜日

できることをする

 
できることをするしかない。
そう自分に言い聞かせてみて、何ができるのかわからない。

できること、朝起きて、出勤して、働いて、帰宅して、寝るということか。
それで「できることをする」というのは、単に自分自身が後ろめたさに押しつぶされないように、ということに過ぎないのではないか。

そういう毎日の中、尾崎豊のドラマをやっていたが、どうもしっくりこない。
しっくりこないというのはまあまあ良くできたということか。

母から始まって、母に終わる。
尾崎豊と母の関係というのは全然知らなかった。
母を歌った歌があったのかどうか、思い当たる歌は知らない。
「シェリー」が実は母だったりして。そんなわけないか。

一番好きな歌は「十七歳の地図」。
最も印象に残っているのは「卒業」のプロモーションビデオ、たぶん。水の中でひたすらもがき続ける、そんなビデオ。歌自体は好きじゃないけど、この映像だけは鮮明だ。

できることをすると言った時、「卒業」のこのプロモーションビデオが浮かぶ。
 

2011年3月21日月曜日

親愛なるものへ

 
研修医が送別会をやってくれた。
ありがとう。
感謝します。
どう言っていいのかよくわからない。
これもまた言いようのないことだ。

うれしかった。
いろいろたくさんの言葉をいただいた。

新しい何かへ向けて、一歩を踏み出す、力をいただいた。

一人ひとりの研修医が語る私自身のこと、そのすべてを受け入れて、すべてが自分だと、そう思えた。
自分が考える自分は自分ではない。自分が考える自分、そんなものにこだわる限り、自分は委縮し続けるだろう。

よいことも悪いこともすべてひっくるめて、他者から見た私自身こそ私だということができれば、多くの困難が乗り越えられるだろう。今となってそれが明確になる。

最後のあいさつで、25年ぶりくらいに学生時代、国鉄職員の友人と作った歌を歌った。
1番以降の歌詞が思い出せなかったけれど、たぶんこんな歌詞だった。

ほとんどの歌詞は寺山修司のパクリだ。

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花にも嵐

軒に干されたランニングシャツ
どこまで転がる麦わら帽子
花にも嵐、花にも嵐
さよならだけが人生だ

角のひなびた貸本屋
今はもうない
月刊ぼくらに少年画報
花にも嵐、花にも嵐
さよならだけが人生だ

七夕祭りの人ごみに
もまれ、もまれて
父母忘れる泣き虫迷子
花にも嵐、花にも嵐

さよならだけが人生だ

消印付きの古切手
切手ばかりが残されて
手紙の中味は煙と消える
花にも嵐、花にも嵐

さよならだけが人生だ

消されたものだけがここにある
消しゴム集めて
何を消そうか思案顔
花にも嵐、花にも嵐

さよならだけが人生だ

なまりなくした友といて
モカコーヒーはあまりに苦い
故郷忘れる、忘らりょか
花にも嵐、花にも嵐

さよならだけが人生だ

さよならだけが人生ならば
野に咲く花は何だろう
花にも嵐、花にも嵐

さよならだけが人生だ
 

2011年3月17日木曜日

ただちに影響のあるものではない

 
原発についての記者会見。たびたび出てくるフレーズだ。

「ただちに影響のあるものではない」と聞いて琴線に触れるものがある。
多くの人は、「今後影響が出てくることを隠ぺいしている」という点で気になるのではないかと思う。

もちろんそこも重要な点ではある。しかし、また別のところが、何かこれまでの仕事と重なって、自分自身のここあそこに触れるのだ。

タバコだって、酒だって、同じだ。
高血圧だって、高コレステロールだって、糖尿病だって、すべて同じ。

実際自分自身、昨日も患者にこういったばかりだ。

「今血圧が180だからといって、すぐにどうこうというわけではありませんから」
「今の調子はどうですか。案外調子がいいのではないですか」

将来も生き続ける、ということ。
今、生きている、ということ。

死をなるべく先送りして長生きしようと生きること。
いつでも死ぬ準備をして生きること。

どちらも尊いけれど、現代は、少し「生き続けること」、「長生きすること」に振れ過ぎている、と思う。

そういう今、「ただちに影響のあるものではない」というのは、「今を生きる」というようなあり方を示しているようにも思える。

今を生きているのは被災者で、明日のことばかり心配しているのは、実は自分の方ではないだろうか。
 
 

2011年3月14日月曜日

想定内

 
世の中を人間のコントロール下に置くことはできない。
常に人間の方が支配される側である。

そういう当たり前のことを目の当たりにする。
ビルの5階で、これから講演というところで突然の揺れ。
どうすることもできない。ただ壁に張り付いて、揺れがやむのを待つしかない。
津波に飲み込まれず、こうして生きているのは、単に運が良かっただけのことだ。

「想定外」という言葉の裏には、こちらがコントロールできる範囲が想定されている。範囲を設定している以上、コントロール不可能な部分があることを本当は想定している。

いまだかつてない大地震は起こる可能性があるし、いまだかつてない津波も起こる可能性がある。想定外と言いつつ、想定内の範囲が設定されたときに、想定外も少ない可能性の中で設定されている。その境界は決して科学的なものではない。可能性と言うだけでなく、実際にもマグニチュード9以上というような大地震が過去に起きている。
想定内というときの境界の設定は、お願いだからこの範囲に収まってくれというような祈りであって、決して科学的なものではない。

科学は、科学によってすべてがコントロールできるということではなく、すべてをコントロールすることなどできないことを明らかにした。
実際そういうことを、医師としてこれまでさんざん経験してきた。
人は死ぬのである。それをコントロールすることはできない。少なくとも今の時点では。

人が死ぬのと同じように、想定外の地震は起こるし、津波は起こる。
それは想定内のことだ。

われわれはそういう世の中に生きている。
 

2011年3月10日木曜日

言いようがないこと

 
言いようのないことがある。
へき地診療所を出て8年。
最初の4年はがむしゃらにやった。よい仕事ができたと思う。もちろん自己評価でということだが。
この4年間は、新しいことは何もしなかった。現状を維持することで日々が無事に過ぎた。
それでもそれなりの4年間だったと思う。これも自己評価だ。
あと2カ月半、無事に勤めることができれば、もうそれで十分だ。

今日、本部より、今月をもって地域医療研修センター長の任を解く、と連絡あり。

悔しい、とだけ言っておく。

2011年3月8日火曜日

再びワクチンのこと、あいまいな中での決断

 
ワクチンの同時接種後に死亡例が出たとの報道後、接種の中断という状況となり、いろいろな議論が飛び交っている。

抗インフルエンザ薬のタミフルによる精神症状を疑う転落事故の報道の後、因果関係は不明だから、投与中止にするようなことじゃないという結末。

それに対して今回のワクチンの場合。ワクチン接種と死亡の関係は不明だが、接種中断、再開の見通し不明という結末。

まあポリティカルな判断というのは、こういうものだと言えばこういうものだ。

まれな副作用について明確な判断をすることはほとんど困難だ。そうである以上、科学的な要素以外で決定するより仕方がない。上記のような矛盾した判断は、様々な状況を考慮した現実的な判断をしたということでもある。

と書きながら、ポリティカルでなくても決断というのはこういうもんだということに気づく。
さらに明確なエビデンスがあるとしても、明確な決断ができるわけではないということにも。
個別の患者に向き合っても、そういうあいまいな中で決断している。

本当はどんなことだって、どっちがいいのかよくわからない中で決めるしかない。

ここでのもっとも重要な問題は、ワクチンをどうするとかいう個別の問題だけではないような気がする。その背後に隠れた、多くの医者が「あいまいな中での決断に慣れていない」という別の問題こそ、ここでの最大の問題ではないだろうか。
 

2011年3月7日月曜日

自立した患者

 
何も情報を持たないものこそ、もっとも自立した患者ではないか。

正しい情報というものはありえない。
正しい使い方というのもありえない。
正しい医者というのもありえない。

それはあまりに極端な考え方かもしれないが、そう考えてみるとどういうことになるのか。

プロフェッショナルとは、正しい医療を、正しい方法で、正しい医師が提供するというふうにも言える。そうした医療を提供するプロの医師は、患者を素人にしてしまうかもしれない。

よく情報収集をした患者は、結局医療者側に飼い慣らされてしまうのではないか?
そういう危険こそ、患者に伝えなくてはいけないのではないか。

逆に、正しい医療も、正しい方法も、正しい医師もないとしたら、そこにあるのはただのカオスかもしれない。しかし本当はこの世はカオスではないのか。カオスの中で生きている、そうしっかりと自覚したほうが、自立した患者を育てるかもしれない。
 

 

寛容と可能性に賭ける

 
高橋源一郎のツイッター@takagengenは寝不足になって困る。
ねたは京大入試の事件だが、論じられていることは、はるかに広いテーマだ。

寛容と可能性に賭ける。
医者も患者も同じだと思う。

ただ、可能性というときに、あらゆる可能性を考えるのが重要。
よくなる可能性だけを考えてはいけない。
あるいは、「よい結果でなくてもよい、受け入れることが出来る」という可能性まで含めるといったほうがいいだろうか。

以前のtwitterでの「子どもに脳炎の後遺症が残るかもしれないということを受け入れることが出来たときに幸福感を感じた」というようなつぶやきを思い出す。その話とつながっている。

あらゆる可能性の考慮を可能にするための寛容性。
よくならない可能性、よくなる可能性、どちらも受け入れられる寛容性。
よくならなくてもよいといえる寛容性。

禁煙に失敗し続ける患者。
甘いものがやめられない糖尿病患者。
認知症が徐々に進行する患者
進行ガンの患者。

カンニングした予備校生に対して、法律にそむいたのだから逮捕されて当然で、また逮捕が法律に照らして正当だとしても、それでも予備校生の可能性に賭けるという人がいてもいいだろう。そういう考えを医学に重ね合わせたときに、どう考えることが出来るか。

医学的に不合理な行動をとるとしても、医者は法律家ではないのだから、寛容さを持ちやすい。
しかし、医学を法律のように運用する危険は高い。そこに注意を払いながら、患者が科学的理論、事実にそむいているのだからよくならなくて当然なのだ、とは決して言わない。

寛容と可能性に賭ける、常に心に留めておきたい。
 

2011年3月4日金曜日

某学会でのこと

 
ある学会で基調講演を頼まれた。
題して「公衆衛生とマーケティング」

全体としては、「健康第一をやめよう」、そういう話。お金かけて検診受けるのもいいけど、そのお金で温泉にでも行ってみたらどうか(http://sarabahakobune.blogspot.com/2011/02/blog-post_25.html)。

一部には、「乳がん検診は、乳がん死亡を20%減らすが、乳がんと診断された人の乳がん以外の死亡を2.5倍に増やすかもしれない」、というような検診に否定的な内容が含まれているのは確かだが、話し終わった後に信じがたい座長からの一言。

「そんなことはすでにみんな考えてやっていることだ」

極めつけは、「この件に対して、○○先生もいいたいことが山ほどあるでしょうから、15分間時間を使っていただいて、是非意見をおねがいします」だって。

そうれを受けて学会の重鎮の元大学教授がパネルディスカッションの時間を無視して発言。
15分くらい、いろいろ話されたが、ほとんどわけがわからない。わかったのは以下の言葉のみ。

検診推進を邪魔する者は、「許せない」

もちろんこちらに再度意見をいわせてくれるわけじゃない。そこで終わり。

こういう人たちが世の中を動かしているとすれば、最近の世の中の動きもわからないではない。
しかし、自分は正しく、相手は間違っている、どうしてそんなふうに思えるのだろう。

ぞっとする事件が続く。
怒るのはつまらんと思っていたが、怒らないといけないのかも知れない。
 

2011年3月3日木曜日

恐ろしい世の中ー京大入試投稿事件だけじゃない

 
受験生もカンニングで逮捕され、
医者も手術で逮捕され、
君が代を替え唄にして逮捕され、
国旗を燃やして逮捕され、

いったいどうなっていくのだ。
こんなことで逮捕状をとるやつこそ、それを認めるやつこそ、逮捕されるべきではないか。

マスコミは、こんなことで逮捕状を申請したやつこそ、認めたやつこそ、実名で報道すべきではないか。

こんなことを言っていると、そのうち私も逮捕されるのだろうか。

これは、本当に大変なことなのではないか。
黙っている場合じゃないだろう。
どうすればいいのだ?

とりあえず書いたが、書いてどうなるのだ?
 

2011年3月1日火曜日

どこまで負けられるか

 
ちょうど野茂英雄についての新書を読んだ。
プロ野球を引退したものたちを集めた文庫を読んだ。そこでもやはり一番は野茂の話だった。

「勝つことが重要なんじゃない。逃げずに勝負することが重要なんだ」

そうだ、そのとおりだ。どこまで負けられるか挑戦してみたい。
Win-Winの関係というのは、勝ったほうが、打ち負かした相手に、おまえも勝っている、いいバッティングしたじゃないかと、WInを強要するようなものではないか。重要なのは勝ち負けじゃないんだ、そんな慰めは、むしろ不要なのだ。
そんな慰めよりは、Lose‐Winで結構だ。

野茂英雄についての新書を読むとともに、深沢七郎をたまたま平行して読んでいたのだけど、それが野茂英雄につながった。

「負ければ、ざまあみろだ」、と深沢七郎が言った。そうだ、その通りだ。

深沢七郎ならこういうのだろうか。
「引退なら、ざまあみろだ」
野茂どう答えるのだろうか
「よくこの負け続けるさまを見て欲しい」、野茂はそういいながら投げ続けることを選んだのではないか。
野茂の挑戦はどこまで負けられるか、そういう挑戦だったように思う。
引退の二文字がちらついてもなお、どこまで負けられるか。

野球選手は負け続けたときに引退しなくてはならないが、医者は負け続けるなかでこそ、仕事がある。

人は全員死ぬ、そういう意味で医者は常に負け戦だ。
負け戦の中で、負け続ける中で、何かをなす、そういう仕事が自分に出来るだろうか。
 
どこまで負け続けられるか、挑戦することにする。
 

 

京大入試問題投稿事件から考えたこと

 
ここにはなかなか興味深い問題がある。
不正という部分についてはその通りだし、よくやったというつもりはまったくないが、不正という部分をあえて無視して考えると、いろいろ見えてくるものがある。

むしろ、不正という部分で思考停止になってはいけない。不正だからこれ以上考えることはないというような判断を停止して、ちょっと考えてみる。思考停止ではなく、判断停止して思考開始。

EBMなんてのは、誰かの回答を参照しながら、問題解決に当たる方法で、今回のやり口はEBMの実践につながる部分がある。情報収集という点で、自力で解決を見出すだけでなく、他に知っている人の情報を集めるというのはEBMの手法と重なる。さらに、集められた情報が信ずるに足る情報かどうか吟味できる能力があれば、批判的吟味のステップもクリアできているという面がある。寄せられた回答が正解かどうかチェックするレベルの能力があれば、それはそれでそれなりの能力だ。さらに、その正しい解答を世の中へ向けて正しく利用できれば、患者への適用という部分につながる。ただ今回のことで言えば、入試における不正という適用で、まあ許されることではないわけであるが。

自分自身が日々行っていることは、診察室にパソコンを持ち込んで、似たような患者の問題について、何か使えそうな情報がないかどうか検索し、その情報を吟味し、個別の患者に生かせないかどうか検討してみる、なんてことである。こういう能力は、時間内に自力で入試問題は解くというのとは別次元の能力で、今の入試制度ではあまり考慮されていない。しかし、実社会においては、自力で入試問題を解く能力より、案外使える能力だったりする。

受験勉強を得意とする人たちが多い医者の世界において、これまでの勉強したことだけを何とか使って問題解決するということに長けている分、あたらしく勉強を追加して解決するというのは苦手な面があるのかもしれない。EBMが普及しないのには、こういう背景があるのかもしれない。

これまでに身に付けたことの範囲で自力で問題を解決するトレーニングをしつつ、その場で新たに情報収集しつつ、あらゆる手段を用いて解決する方法にも習熟する。それはよい医師を育てるために重要な2つの部分だと思う。