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2010年9月19日日曜日

師に逢って、主に逢わない

 
森鴎外の「妄想」を読んだ。私と同じ49歳の時のものらしい。

<昔世にもてはやされていた人、今世にもてはやされている人は、どんなことを言っているのかと、譬えば道を行く人の顔を辻に立って冷淡に見るように見たのである。
 冷淡には見ていたが自分は辻に立っていて、度々帽を脱いだ。昔の人にも今の人にも、敬意を評すべき人が大勢あったのである。>

<それはとにかく、辻に立つ人は多くの師に逢って、一人の主にも逢わなかった。そしてどんな巧みに組み立てた形而上学でも、一篇の抒情詩に等しいものだと云うことを知った。>

<幾多の歳月を閲しても、科学はなかなか破産しない。凡ての人為のものの無常の中で、もっとも大きい未来を有しているものの一つは、やはり科学であろう。>

「師に逢って、主を持たなかった」、確かに、そう思う。多分これからも主には逢わないだろう。また、これからも多くの師に逢えるといい。ただ、科学に対する期待はうすれ、むしろ抒情詩に期待をしている私であるが。
  
今いる団体は、主ばかりで、師がいない、ということだったと整理できるような気がする。逆に、15年前の後期研修医時代は、主がおらず、みんな師だった。

主がおらず、師がいる、そんな場所を提供できれば、いいなあ。そして、私自身も、師として、弟子として、何かの役割を果たすことができれば、それ以外のことは、さして問題ではないような気もする。
  

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