ここで働いています

2010年9月28日火曜日

森鴎外を読む

 
今までまともに読んだことがなかったのだけど、読んでみて、いろいろ驚くことばかりだ。

なんで今頃になって森鴎外を読んだか。よくわからんが、高校の教科書に載っていた「寒山拾得」の最後に、「パパも本当は文殊なのだけれども、誰も拝みに来ないのだよ」というような記述がなぜか延々印象に残っていて、そんなことがちょっと関係しているのか。あるいはアメリカ帰りの医師たちの発言に、時代はまだ漱石、鴎外の時代と何も変わっていないじゃないか、というような気分になったこともあるかもしれない。

読みたいと思って初めて理解できることが出てきた。

鴎外を読め!
ただ読みたい人は、というわけで、無理やり読んだところでくたびれるだけかもしれない。

読みたい人とは誰か。読んでもいない本が読みたい、不思議なことだが、そういうことが重要なのだ。
 

高瀬舟の意外な記述

 
高瀬舟を読んだら意外な記述に行き当たった。

<従来の道徳は苦しませて置けと命じている。しかし医学社会にはこれを非とする論がある。すなわち死に瀕して苦しむものがあったら、楽に死なせて、その苦を救って遣るが好いと云うのである。>

安楽死は医学の対立軸から出てきたわけではなく、医学そのものに起源をもつのだ。

しかしよくよく考えてみれば苦しみから救うというのは、昔から一貫した医学の目的だ。何も変わってはいない。だとすると変わったのは何か。

<従来の道徳は苦しませるなと命じている。しかし医学社会にはこれを非とする論がある。すなわち死に瀕して長生きの可能性があるなら、その可能性に賭け、なるべく延命をするのがよいというのである。>

生命の尊厳、とかいうのであるが、尊厳というような言葉で、むしろ延命を選んでしまう。
生きてさえいれば、それが一番である。それはそれでまた大事な考え方だが。

もうひとつ意外なこと。高瀬舟の前半は、喜助の明るい未来というような内容が書かれている。
高瀬舟の喜助が、明るい未来を感じながら、島流しの刑に向かう。

高瀬舟という小説は、「足るを知る」ということが一番大きなメッセージなのかもしれない。死んだ弟だって、何か満足があったのではないだろうか。

満足することのない、私たち。
 

2010年9月25日土曜日

なぜうつ病の人が増えたのか

 
幻冬舎ルネッサンス新書、産業領域のメンタルヘルスを専門とする精神科医が書いた本。

臨床医の仕事というのはこういう視点でやらなければいけない、そういうお手本のような本だ。

実証的であり、論理的であり、経験的であり、処方的であり、私の書くもののように、実証的論理的であろうとして、結局酔ったようなわけのわからん文章にしてしまうようなところがない。

この本を読め!
 

興津弥五右衛門の遺書

 
森鴎外の短編の続き。切腹する武士の遺書なのだが、文語で書かれている。現代語で書くとどういうことになるのだろうか。

<わたしは、以前から希望していたように、明日、首尾よく、切腹することになりました。>
なんて書きだしになるのだろうか。

そういうことが普通の生き方としてある、という風に読めばいいのか、どうか。特別な事件としてというより、世の決まりに基づいて、つつがなく生きる、生き方として切腹がある。

新潮文庫のこの短編集には、「山椒大夫」、「最後の一句」にも、世の定めや、運命を受け入れて、死んで行く人たちが描かれているが、「興津弥五右衛門の遺書」に照らして読めば、こうした生き方があたかもすすめられているようにも思える。

殉教とか、殉死、と言えばそういうことなのだろうが、そうしたことをさらに一般化して言えば、何らかの「きまり」に従って生きる、死ぬ、ということだ。

興津弥五右衛門は武士道の「きまり」に従い、安寿は男子が家を継ぐというような「きまり」に従ったのだろうか。「最後の一句」の子供たちも同じだろうか。

そう考えたときに、自分はいったいどんな「きまり」に基づいて生きているのか。はっきりわかるのは、自分が基づいている「きまり」の中に、どう死ぬかということはどうも含まれていない気がする。死なないようにするための「きまり」だけで生きている。医療の「きまり」はまさにその最たるものだ。

「なるべく死なないように生きる上でのきまり」、これが現代の「きまり」の特徴だ。
 

2010年9月21日火曜日

目標

 
三浦雄一郎のCM。何のCMだっけ?
<怖いのは老いではない。目標を見失うことだ。>

柔道の谷本選手が記者会見で
<目標を見失ったこの2年間はとてもつらかった>

私なんか全く逆に思う。目標を見失って、初めて見えた。
<怖いのは目標に固執することだ。自分を探すな、副腎に求めよ>

人間にとって科学とは何か

 
村上陽一郎の新刊。
全体をとらえる、という意味でとても参考になる。ただ、全体をとらえる方法というより、合意を得るという方向に軸足があって、自分自身とは少し方向性が違う。

そんな中での印象的なフレーズ。

<クローン羊ドリー誕生の報道があった時に、あるアメリカの産婦人科医に電話がかかってきて、「わたしたちの愛の結晶の子供をあの方法で持つことができるまで、あと何年待てばいいのでしょうか」と質問されたそうです。>

<クローン技術が可能性を開いたことによって。それまで存在していなかった欲望が顕在化する、この果てしなさに辟易します。今私たちは、科学技術と欲望の両輪がお互いに激しく刺激し合って果てしなく続いていくという事態にさしかかっています。どこで止めるのか、止めるものがあるとすれば何なのかというのは確かに問題です。>

臨床倫理の問題に、人間の欲望の問題を考慮するというのは、とても重要だ。MRIをとってくれという患者にどう対応するかというのも、患者の希望というような言い方でなく、欲望の問題として整理すると、別の面が見えてくるかもしれない。

以前これを絶望と呼んだが、希望、欲望、絶望、という並びは、かなりこの問題を明らかにする。
 
 

2010年9月19日日曜日

師に逢って、主に逢わない

 
森鴎外の「妄想」を読んだ。私と同じ49歳の時のものらしい。

<昔世にもてはやされていた人、今世にもてはやされている人は、どんなことを言っているのかと、譬えば道を行く人の顔を辻に立って冷淡に見るように見たのである。
 冷淡には見ていたが自分は辻に立っていて、度々帽を脱いだ。昔の人にも今の人にも、敬意を評すべき人が大勢あったのである。>

<それはとにかく、辻に立つ人は多くの師に逢って、一人の主にも逢わなかった。そしてどんな巧みに組み立てた形而上学でも、一篇の抒情詩に等しいものだと云うことを知った。>

<幾多の歳月を閲しても、科学はなかなか破産しない。凡ての人為のものの無常の中で、もっとも大きい未来を有しているものの一つは、やはり科学であろう。>

「師に逢って、主を持たなかった」、確かに、そう思う。多分これからも主には逢わないだろう。また、これからも多くの師に逢えるといい。ただ、科学に対する期待はうすれ、むしろ抒情詩に期待をしている私であるが。
  
今いる団体は、主ばかりで、師がいない、ということだったと整理できるような気がする。逆に、15年前の後期研修医時代は、主がおらず、みんな師だった。

主がおらず、師がいる、そんな場所を提供できれば、いいなあ。そして、私自身も、師として、弟子として、何かの役割を果たすことができれば、それ以外のことは、さして問題ではないような気もする。
  

話は通じていない

 
日々の診療で、多くの薬を処方する。しかし、薬の効果について説明することはなかなか難しい。

「これは効くような効かないような薬です」

それで話が通じるわけはないのだけれど、通じるためにはそうした部分を乗り越える必要がある。

「治療をする」、ということは、「生きる」ということの縮図である、そういえば当たり前のことだが、現実は、「生きること」より、「治療する」ことの方が大きなことになってしまいかねない。

「生きる」ということが「治療する」ということと同様に、長生きすること、健康でいること、という一方向で考えられる。「治療をする」ということが、「生きる」ということを決めているように見える。それをもう一度反転する必要がある。

「治療をする」ということは、「生きる」ということの一部にすぎない。「治療する」ということが、「生きる」ということより大きくなってしまうようなバカげたことは、早く何とかしないといけない。

そうなったときにはじめて話が通じる。でもそれは医者嫌いの人と話したりすれば、簡単に話が通じたりするのだけれど。
 

話が通じることの不思議さ

 
毎日、診察室を筆頭として、いろんな場所で、誰かと話すのが仕事なんだけど、話が通じるというのはつくづく不思議なことだと思う。

胸はどんなふうに痛いのですか、なんて聞いて、いろいろ患者さんが説明してくれるのだけど、ほとんどわけがわからない。患者さんによっては、どう表現していいかわからないのだけどと、正直に言う人もいる。

大学時代、同級生と話した、ほんのちょっとした出来事。
当時付き合っていた彼女の話題か。恐らくそんな話題なのだろうが、詳細は思い出せない。ただその後のことはよく覚えている。

「さびしいだけなのか、好きなのか、よくわからんのだ」という私。
「おれもちょうど同じようなことを思っていたんだ。その一言はおれの琴線にも触れる、おれもなんとなく思っていたことと同じような気がするんだけど、もう少し何か説明してくれないか」と言う友。

そう言われて、それ以上の説明が全くできない私。しばらくの沈黙の後、何事もなかったかのように別の話題に。ただそれだけのことなのだが、これは話が通じたというのか通じなかったというべきなのか。
今となれば、そんなのはさびしいだけだ、相手はそう明確に答えるかもしれない。しかし、そういう風に答えてしまえば、話は通じないというか、記憶にとどまることもなく通り過ぎるだけの会話になるしかない。こんなことに引っかかって、もっと説明してくれ、もっとわかりたい、というのは、話が通じている証拠だ、むしろそう思う。

誤解の幅こそがコミュニケーションの源泉だ。

30年を経て、こういうのを話が通じたというのだと思う。
「わからないけどわかる」、そうと言うしか仕方がない。ばっちりわかるというのは多くの場合勘違いだ。なんとなくわかる、少しはわかる、その方が全然信頼できる。

日々の外来が、なんとなくわかる、ということで済むような、そんな風にやれたらいいのに。
 

鬱という字の2面性

 
鬱という字は、リンカーン大統領はアメリカンコーヒーを3杯飲むと覚える。なるほど。
それはいいとして、鬱には、一般的な鬱とは逆の意味、「鬱蒼:うっそう」の時の鬱のように、豊かに生い茂るさまという意味があるらしい。

ひとつの文字が逆の意味を同時に持つというのは、なんとなくわかる。

最もわかりやすい例でいえば、「ある」という言葉は、「ある」という意味と「ない」という意味が同時にある。わかりにくいか。
おおそうだ。「わかりやすい」という言葉にも、「わかりやすい」という意味と「わかりにくい」という意味が同時にある。

ますますわからない。
でもますますわかるといってもいいくらいだ。

「無心」なんてことも似たようなことのような気がする。

「いはんや悪人をや」なんてのも。

「生きる」というのも、「死ぬ」というのも。

誰かが「死にたい」なんて言うときは、「生きたい」と言ったって同じだ。
 

2010年9月14日火曜日

カズイスチカ

  
また抜き書き。森鴎外「カズイスチカ」
医者の父に対して、父が一瞥で患者の予後を言い当てるようなことは自分では到底できないという。しかし違いはそれだけではない。

<翁の及ぶべからざる処が別に有ったのである。
 翁は病人を見ている間は、全幅の精神を持って病人を見ている。そしてその病人が軽かろうが重かろうが、鼻風だろうが必死の病だろうが、同じ態度でこれに接している。盆栽を玩んでいる時もいる時もその通りである。
 花房学士は何かしたい事もしくはする筈のことがあって、それをせずに姑らく病人を見ているという心持である。それだから、同じ病人を見ても、平凡な病人だとつまらなく思う。Intressantの病症でなくては飽き足らなく思う。また偶々所謂興味ある病症を見ても、それを研究して書いて置いて、業績として公にしようとも思わなかった。勿論発見も発明も出来るならしようとは思うが、それを生活の目的だとは思わない。始終何か更にしたい事、する筈の事があるように思っている。しかしそのしたい事、する筈の事はなんだかわからない。>

父である翁は、したい事、する筈の事を持っていないし、息子は持っている。持っていないことが重要だ。心当たりはたくさんある。

夢なんか持つな。そんなな風に言っても決して伝わらないことが、こうしたことで父から息子へ受け継がれる。
だから、自分も息子に、「夢を持つな」なんてわけのわからないことは言わないようにして、とりあえず「夢を持て」、というのだが、息子は、そんなもの持てるわけないだろ、という感じで何の返事もない。しかし、来春からは就職である。やりたいとか、やりたくないとか、そんなことにかかわらず、結構立派に働くのかもしれない。いまどきの若者侮りがたしである。

今死んじゃってもいいんだけどね

 
世界で一番長生きな人たちが、今日も健康に関する不安でいっぱいになって病院を訪れる。
そんな患者さんについての話をしている中で、こういう不安を理解するのは難しい、30も40歳も若い自分だって、今だってもう死んでもいいと思ってるんだけどね、そんな風に言うと、たいがいみんな、そんなこと言って、誰もそんな悟りの境地なんかに立てませんよ、と会話が途切れる。しかし、途切れた会話を無理やりつなげる。

別に悟ってなんかいないんだ。それなりに合理的、打算的に考えた結果なんだけど。
別に今死んじゃってもいいんだけどね、なんていうと、またそんなこと言ってなんて、今のように相手にされない。確かにそうだ。
しかし、だ、逆に、自分こそは生きるべき人間だ、なんていうのを聞いたらどう思うか?
それもまた頭がおかしいと思うだろう。が、そう聞いた後で、今死んじゃってもいいんだけどね、と聞きけば、今度は死んじゃってもいいというのが少しは理解される。

高齢化社会では、今死んじゃってもいいんだけどねという人の方が、一般に若い人の人気が高い、はずだ、と思うのだけど、本当のところどうかわからない。若い人は遠慮して、そうはっきりとは答えないだろうから。

こうまで若者に嫌われたい老人が増えたのはなぜか、病院で働いていると、そういう気がするのだが、それは病院という場所による選択バイアスか。

わたしは若者に嫌われないためといって、今死んじゃってもいいんだけどね、なんて、50歳にもならないうちから人気とりをしているのだが、それは日々を楽しく暮らすためには、かなりいけてる方法のような気がする。

今から寝るんだけど、朝目覚めるかどうかなんて、本当はわかったことじゃない。どうしようもないことを心配するよりは、目覚めない朝を想像しながら眠るなんてのは、どうだろう。確率的にいえば、また目覚める可能性が圧倒的に高いわけだけど、そういう可能性の高い方ばかりに賭けているから、全然人生がおもしろくならない、そんな風に思うのだけど。

というわけで、目覚めない朝を想像しながら、寝ることにする。
 

2010年9月11日土曜日

コレステロールは敵か味方か

 
コレステロールなんてものはない。コレステロールという名があるばかりだ。
コレステロールというものがある。そう名づけられたものとは違う何かが。

コレステロールは、人間の体にとって、道に転がる石のようなものだ。
石は敵か味方か。
コレステロールだって同じ。

ただそこにある石というのにも何かしら起源がある。歴史がある。時間が流れている。

山から下って、川から海へ、そしてまたあの山へ。
「小石のように」、ボブディランでなく、中島みゆきの方。

コレステロールも、食った肉から門脈、肝臓、そして静脈、動脈、ステロイドホルモンなんかにもなるかもしれない、動脈硬化を作るかもしれない。まさに小石のように、コレステロールにも歴史がある。時が流れている。

コレステロールというのはもうやめにしたい。この私の血液を流れる、ストーンと呼ぼう。たくさんのストーンのうちの一つ。コレストーン。

転がれ、私のコレストーン。小石のように。ある時は敵に、ある時は味方になって。
でも本当は、コレストーンは、敵でも味方でもなくて、ただ石のようなものだ。

コレストーンが、敵でもなく味方でもないことは、エビデンスがそれを見事に証明している。
しかし、なぜかコレステロールと名付けられたものには、敵だという情報しか流れなかった。ようやく今頃になって、味方説が流れだす。
そうなるとまたこっちには違和感があって、敵説と味方説の起源が同じところにあることを思い知る。

いや、コレステロールは敵でもないし、味方でもない、名前を変えた方がいい、コレストーンと。敵か味方かという考え方をやめない限り、この混乱は収拾しないだろう。
 

2010年9月10日金曜日

怖いのは菌か抗菌薬か

 
今回の院内感染、耐性菌事件は今の世の中の象徴的な部分の反映か。

そういうタイミングで、テレビの除菌薬のコマーシャル。
カーペットにシュッ、ベッドにシュッ、衣服にシュッと、あれである。

菌=悪、除菌薬=善、という構図であるが、そんなことはわかったもんじゃない。
普段仲良くしていたのは菌の方で、新たに現れた除菌薬こそ敵かもしれない。
院内感染も似たような問題である。菌=敵という行き過ぎた結果ではないか。

と考えてきてどうにもつまらない。

そういう思考は、なんだか身に付いた気がする。ただそれも一つの思考なのだ。
正、反、合、なんてのはいつまでたっても堂々めぐりするしかないやり方だと思う。
菌は敵でも味方でもないし、除菌薬も敵でも味方でもない。こういう考え方ができて、何か止揚できている気はしない。上に揚った感じはない。

脱構築なんていうのだが、それも少し違う。そこにも何か思考方法のステップアップなんていう段階がある気がする。

そうなると、やはり「無」なんてのにひかれてしまう。

院内感染の事件をのぞくと、奈落の底が見えるかもしれない。しかしそこは奈落ではなく、単にとなりだったりする。価値から自由である「無」。

「最後の親鸞」に、「横に超える」というようなことが書かれていた気がする。
院内感染を横に超える。そういうことができた先には、「何もない」が待っているかもしれない。

怖いのは、菌でなく、除菌薬でなく、一体何か。
名づけることか。姿をとらえることか。価値を見出すことか。
 

2010年9月9日木曜日

勝手にどうにかなる

 
世の中というのは基本的にはめちゃくちゃで、あらゆることが起きる。
その代わりと言っては何だが、結局は何とかなる。
そういう世の中の基本的な仕組みについて、もう一度深く知る必要がある。

すべてがうまくいくという世の中はない。
どうにもならない世の中というのもない。

うまくいくというのも、よくよく考えるとうまくいっているのかうまくいってないのかよくわからないところもある。

ペニシリンの発見、ということがなければ、耐性菌もない。
何だ、院内感染の話か。そうでもないんだけど。

ペニシリンで肺炎が治った、というのも治らないということとセットでしかあり得ない。治るということと治らないということは一つのことだ。

思い出すのは、どうしてかよくわからないけど、みにくいあひるの子の定理。
あらゆる二物は似ているというやつだ。これは数学的に証明されているというが、情緒的にも証明されている。

人間と小石は似ている。人間も小石もひとつのことだ。区別はない。
時が流れてしまえば。時は必ず流れるから、区別はない。

世の中というものに姿はないのだと思う。
時が流れているということ。

耐性菌が出るまでになった世の中は、それはそれで評価できるところもある。
みんな細菌と戦って頑張った結果だ。
でも戦わないという選択肢だってあるんだ。
それもまたそれで評価できるところがある。
全部評価できる、ということだ。ただ評価できるというと、やはりそのうち全部ということが無くなる。評価できることとできないことに分けられていく。

とりとめもなくいろいろ起こるのだが、本当は何も起こらないといってもいい。
とりとめがないというと、何か整理したい気持ちが出てくる。そこが落とし穴だ。
とりとめがないというところで止めることは難しい。
いっそのこと何もないというところまでいければ。あるいはすべてあるというところまでいければ。
ただすべてがあるというのは、誤解しやすい。
可能なことがどんどん増えている、そのうち全部が可能になると思うかもしれないが、そうではない。そういう意味では、相変わらず何もない。それを全部あると呼べるかどうか。

 

2010年9月7日火曜日

院内感染とエコ

 
院内感染の問題が連日新聞に載る。
こういう問題こそエコロジカルに取り上げてほしい。

オランダの中耳炎ガイドラインは、中耳炎の患者に発症から3日以内の抗菌薬投与を原則投与しないという方針によって、耐性菌を激減させた。もちろんそれによって中耳炎による難聴などの重篤な合併症が若干は増えているかもしれないが。要するにこの問題は、あっちがたてばこっちが立たずというエコロジカルな問題なのだ。

こういうことをエコロジカルに論じるような、ジャーナリストがいるといいのだけれど。

かぜには抗菌薬を出さない、気管支炎では迷う、肺炎には出す、というような基本すら全くないがしろにされている現状で、大学病院の院内感染の問題だけ取り上げても、何の解決にもならない。

エコ、エコとやかましいが、エコロジカルな思考というのは忘れ去られるばかりだ。
 

確実なボケ防止

 
テレビでボケの研究者がボケ防止を披露している。
大体適当なことを言っていると思う。

多くの人が運動がいいなんて言っているが、運動なんかして長生きしたらボケる確率が高くなるに決まっているじゃないか。

確実なボケ防止方法はある。そんなの簡単。
ボケてないうちに自殺する。
これは確実なボケ防止だ。

あるいはこんな風にいう人もある。
「先にボケたもん勝ちだよ」
あとにボケるほど、他人のボケと格闘しなければいけない危険が増す。
先にボケるのがボケと戦うことを予防する。
ボケで大変なのは本人だけじゃなく、周囲の人だったりする。どちらが長く大変かといえば、周囲の人に決まっている。

そういうことを考えない中でのボケ防止法なんてのは、全く絵に描いた餅だ。

怖いのはボケることでなく、ボケることを怖がる自分だ。
 

情報は操作されている

 
あらためて書く程のことでもないが「情報は操作されている」

低コレステロールと死亡なんてことが話題になっているが、コレステロールの薬でもうメーカーは散々儲けて、どうせジェネリックに切り替えられるだけだし、コレステロールの薬で広告料を取るころもなくなって、マスコミの方もそろそろ取り上げてもいいころだというところか。

真相がそうだとは思わないけど、そういう社会に生きているということは確かだ。

もう15年も前から、女性の高コレステロール患者に、言ってきたのは次のようなことだ。

「日本人の女性は世界で一番長生きじゃないですか。その日本の女性が一番高い割合で高コレステロールだなんて言われているんですよ」
「生き死にでいえばコレステロールがちょっと高めの方が長生きなんです。実際男性より女性の方がコレステロールの平均の方が高くて、心筋梗塞は女性に少ないんですよ」
「あなたのようなコレステロールが高い女性が100人いたとしましょう。5年以内に心筋梗塞になるのはせいぜい2-3%なんですよ」

あまり誰も信じてくれないし、一番反対するのがコレステロールの専門医だったりする。
いまだに信じてもらえない。
大体信じるようなことではなく、研究の事実を述べているだけなんだけど、これを信じているなんて自分でも間違ったりする。これはそうとう根深い問題だ。

<「治療をためらうあなたは案外正しい」は案外正しい>とコメントしてくれた某大学の某教授は案外正しい。
 

2010年9月5日日曜日

ワークショップで僕は君に話しかけたかった

 
後期研修医向けのワークショップ。
話したいことは山ほどある。

かぶっていた野球帽をなくして(そのあとすぐに出てきたのだけど)、思い出した話。
野球選手の帽子に成りたいというネフローゼの少年。
小学生に上がるか上がらないかくらいの年齢で、自分が死んだ後のことを考えていたのであろう少年のこと。医者に成りたい、先生に成りたいではなく、帽子に成りたい、自分が死ぬのではないかという恐怖と常に向き合っていた少年のこと。

臨床研究のワークショップであったが、本当はそういうところまで行きたいのである。
何のための研究か?そういう少年のための研究である。

ほんとはそんな話もしない方がいいのだ。ただ話しかけたいということだけで十分。
話さないことで伝わる。そういうことに賭けられるくらい、自分自身も少しは成長したと思う。
というわけでその話は早々に切り上げて、臨床研究のワークショップに移る。

こっちはもう2冊の本にしたし、もう出来上がったことを扱うのみ。
ただ大事なのは話しかけたいということで話す内容ではないのだ。

これでいいのだ。