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2010年8月6日金曜日

最後の親鸞

 
ただの抜き書き

<わたし>たちが宗教を信じないのは、宗教的なものの中に、相対的な存在にすぎない自分に目をつぶったまま絶対へ跳び越していく自己欺瞞をみてしまうからである。<わたし>は<わたし>が欺瞞に躓くにちがいない瞬間の<痛み>に身をゆだねることを拒否する。すると<わたし>には、あらゆる宗教的なものを拒否することしか残されていない。そこで二つの疑義に直面する。ひとつは、世界をただ相対的なものに見立て、<わたし>はその内側にどこまでもとどまるのかということである。もうひとつは、すべての宗教的なものが持つ二重性、共同的なものと個的なものとの二重性を、<わたし>はどう拒否するのかということである。たしかに、<わたし>は相対的な世界にとどまりたい。その世界は、自由ではないかもしれないが、観念の恣意性だけは保証してくれる。飢えるかもしれないし、困窮するかもしれない。だが、それとても日常の時間が流れていくにつれて、さほどの<痛み>もなく流れていゆく世界である。けれど相対的な世界にとどまりたいという願望は、<わたし>の意志のとどかない遠くの方から事物が殺到してきたときは、為すすべもなく懸崖に追いつめられる。そして、ときとして絶対感情のようなものを求めないではいられなくなる。そのとき、<わたし>は宗教的なものを欲するだろうか。または理念を欲するだろうか。そしてやはり自己欺瞞にさらされるだろうか。たぶん、<わたし>はこれらのすべてを欲し、しかも自己欺瞞にさらされない世界を求めようとするだろう。そんな世界はありうるのか?
 

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