ここで働いています

2010年1月16日土曜日

飯田線と新幹線こだま号を乗り継いで帰る

新城で講演の後、飯田線と新幹線こだま号を乗り継いで帰る。新城駅には以外と人がいる。少し前に下りの電車があり、大部分はそれに乗る。週末の奥三河への旅行者であろうか。3分後には上りが来るはずだが、急病人発生とかで列車が遅れる。ホームで待っていたのだが、寒いので待合いに戻る。ホームでは、外国人男性と日本人の若いカップルが抱き合っている。寒さを味方に付けた、なかなかの行動だが、多少不愉快な気持ちもある。
10分ほど遅れて豊橋に着く。予定の新幹線にぎりぎり乗れず、豊橋で20分ほど時間ができる。待合いに無線LANが飛んでおりメールのチェックができる。今日中に返事をした方がいいメールが一通あり、それに返事を書く。待合いのテレビは大相撲中継。十両の取り組み。山本山と誰だかの取り組み。誰も見ている様子がない。私もその取り組みの結末は知らない。画面の山本山という文字が記憶に残っているだけだ。ラジオは知ったかぶりの大相撲中継、なんて歌が思い浮かぶ。知ったかぶりの大相撲中継、ってなんだ。大相撲中継は、こちらの気持ちを見透かすかのように、あえてそれにはふれずに淡々と中継しているということか。
そのうちに次のこだま号の時間となりホームへ降りる。出発までにはまだ時間があるが、列車が入ってくる。豊橋でのぞみやひかりに追い抜かれるために何分か停まるのだ。そして出発。
出発しても、こだま号はたびたび停まる。停まるとなかなか出発しない。停まってる時間と走っている時間を正確に計りたくなる。新横浜に着くまでに、合計30分以上停まっているんじゃないだろうか。
しかし別にそれが苦痛なわけじゃない。今はもう三島を過ぎて次は熱海か。掛川あたりから書き始めた新城からの旅行記に追いつかれるくらいだから、確かに遅いという気がするが。そうこう書いている間に熱海に着く。熱海って熱い海だ。海に温泉が湧いていたのだろうか。初めてそんなことを考える。熱海からは結構たくさんの客が乗ってくる。案となく温泉旅行者、仕事という雰囲気ではない人が大部分のように見える。
次は小田原、そうしたらもう新横浜だ。新幹線を追い抜いたので、この辺でやめることにする。

2010年1月15日金曜日

開業

一旦開業すると、もう後戻りはできない。簡単にはやめられない。


一時的な収入減を受け入れなくてはいけない。家は小さくなる。

子供たちは巣立っていくだろう。そして、夫婦だけの生活。
「開業」なんて本を買ってみた。自分の知らないことばかりだ。こういう本は基本読まない。しかし必要とされるのはそういうことだ。

でも結構いいことが書いてある。‘「自分が、自分が」という意識が払拭され、世間の一員としての果たすべき役割に気がついたとき、『開業哲学』はシンプルな言葉で身近なところに存在することとなるでしょう’

私の本に自分で書いたことそのままだ。

病院医療に自分の果たすべき役割はないような気がする。そうだとすれば、クリニックの開業に当たっての『開業哲学』は、これまでの臨床医としての哲学そのものに近い。
そうやっていろいろ理由をこじつけながら進んでいく。しかしそれは自分を自分を正当化していくというに過ぎないかも知れない。

結局「自分が」から逃れられない。

だから、本当は開業哲学なんてどうでもいいのだ。縁あって開業する、そういうのがいい。

閉鎖病棟

ははきぎ蓬生、ははきぎが変換されない。帚木、「ほうき」と入れるとでてくる。ぜんぜん知らない作家だった。私の「治療をためらう」が週刊朝日に医療系の本のベスト3として和田秀樹氏に紹介されていたのだが、その項で、複数の人からベスト3にあげられていた。何となく、おもしろそうな気がして買って読んでみたらみたら、これがすごい。精神病患者の物語、といえばありきたりだが、ものが違う。患者等の開放されっぷりがすごい。閉鎖された世の中に住んでいるのはこっちの方だ。
たとえばこんな場面。
覚醒剤中毒患者の元やくざ。どうしようもない奴として描かれる。通院してくる女子中学生を強姦してしまう。その元やくざを、かつて家族を4人も殺し死刑判決を受けたものの、死刑によって死ねず、生き残ってしまった半身不随患者が殺す。その殺した場面を、その元死刑患者本人が振り返る。
苦しそうだった元やくざが、刺されることで優しい顔になって死んでいく、そんな描写。正確に思い出せない。正確に思い出せれば自分が作家になっている。

なんて開放ぶり。それに比べて、こちらの閉じっぷりもハンパない。こちらこそ、私自身こそ閉鎖病棟にいる。

新年早々

新年早々不愉快なこと続きで、と書き始めて、新年早々に悪いことは起こらないというような前提に立っている自分に気がつく。要するに不愉快なことが続いている、そういう当たり前の状況である。
そこで読んだ一冊の本。組織と人間、沈まぬ太陽の主人公のモデル、小倉寛太郎と佐高信の対談。佐高信の言うこと書くことはどうにも生理的に無理なところがあるが、小倉寛太郎に負けて買ってしまった。

予想通りの内容で、お買い得感なしの本ではあるが、それでも、自分自身のことにつなげていろいろ考えることもあり、読まなければあえて考えたりしない、いやな面のいい面というか、そういうことにどうしてもふれることになる。
理不尽な人事でアフリカに長くいることで学んだこともあり、それは会社に感謝すべきじゃないかという周りからの意見に対して、断固そうではないと述べる。会社には絶対感謝などしない、その強い意志。しかしあの理不尽な状況にとどまり続けてがんばるには、何かないと無理な気がする。やめることで会社の悪い奴らを喜ばせることだけはしたくない、そういう発言もあるが、本当にそれだけの理由で頑張れるものだろうか。
ここまで理不尽な思いをしてもなおかつ前向きに生きる、その背後には何かある。しかしそれについてはいっこうによくわからない。親からの教えというのが載っているのだが、天知る、地知る、我知る、みたいなもので、父から言われたそんな言葉で乗り切れるようには思えない。
生きることに対する何か、生きることは尊いということか。アラゴンの詩のように、人生には苦しんで生きる値打ちがあると。

それだけのことか、しかし、それだけでこのように生きられるものだろうか。
会社に感謝することなどなくても、何かに感謝せざる得ない、そうでないとこんなふうに生きられない。何かに対する感謝、そのことについて、何か明確に述べられていただろうか。あまり心当たりはない。しかし、そういうところを探して読み直す必要があるかも知れない。
不平不満ばかり言っている自分。自分が受けた理不尽さなど、ものの数には入らないようなことばかりだ。それなのに何で不平不満ばかりがでてくるのだ。

感謝すべきものが見つからない。そういうことかも知れないと思う。
感謝すべき人は死んでしまった人ばかりだ。