ここで働いています

2008年4月29日火曜日

痛風

昨夜から足の甲が痛くて、なんだか変だった。今朝起きると、少し腫れている。押すと痛い。なんだか嫌な感じだ。構わず出かける。すると徐々に痛みがはっきりしてくる。

午前中の仕事の合間に靴下を脱いで足の甲を見てみると、赤く腫れ上がっている。皮膚に光沢がある。痛風っぽい。薬を処方してもらって飲む。1時間もするとかなり痛みが楽になる。なんていい薬なんだ。

そういう年になったということだ。痛みがかなり治まったせいかもしれないが、なんだかそれほど悪い気分じゃない。

息子らと一緒に飯を食うと、ちょっと競争して食べるようなところがある。息子は父に負けまいと、父もまだまだ負けてはいられないと。どっちも無理しているんだ、なんて思っていたが、無理しているのはこっちだけだな。そういう無理はもうやめよう。息子らの時代である。

息子らの時代の中での自分の役割。そんな風な発想が重要だ。たぶん。

実はもう肉なんか食いたくなかったし、寿司だって食わないなら食わないで構わないのだ。レバーなんてもってのほか。

一日に玄米4合と、みそと少しの野菜を食べ、だっけ。そんな食事が実はしたかったのだ。無理するのはやめよう。うまいものを食わなければいけないというような無理は。

2008年4月24日木曜日

攻撃を避けるには

こっちが何にもしていなくても相手が攻撃をやめない場合、どうすればよいか。
逃げる。
そうだな。それしかないな。

逃げよう。

会議

会議はもうやめにしてくれ。

2008年4月23日水曜日

電車の遅れは誰のせい?

新幹線が2時間近く遅れて、タダでさえ遅い到着がさらに遅れ、目的地についてのが午前2時。
普通に考えるとJRに責任があるように思えるが、JRのせいにされても困るだろう。乗客が飛び降りたというのだから、JRも被害者である。そうすると悪いのは飛び降りたやつか。しかしそれはそれで又やむにやまれぬ理由があるのかもしれない。そいつをリストラした会社とか。しかしその会社も又どこかの会社の下請けで、親会社の締め付けでやむなくリストラしたのかもしれない。となるといったい犯人は誰か?

で、2時近くなって降り立った駅で、車掌に切符を渡すときに、渡してしまってから思うこと。
「ご苦労さん」、そんなふうに声を掛けられたら、電車が遅れることももう少しは少なくなるんじゃないだろうか、そんな気がした。唯実際にはそんなことが言えていない。だから電車が遅れる。そうすると、電車が遅れたのは俺のせいかもしれない。少なくとも一部分は。

2008年4月20日日曜日

傘がない


傘がないを聞いていて、行かなくちゃというフレーズがどうしても頭から離れない

傘がない、中年オジサンバージョン2008

都会では自殺する中年が増えている
今朝来た新聞の片隅に書いていた
だけども問題は今日の雨、傘がない

行かなくちゃ、会社に早く行かなくちゃ
タイムカードを押さなくちゃ、雨にぬれ
冷たい雨が今日も心に浸みる
会社のこと以外しか考えられなくなる
それはいいことだろ

テレビでは我が国の将来の問題を
誰もが真剣には話していないのよ
だけども問題は今日の雨、傘がない

行かなくちゃ、会社に早く行かなくちゃ
ICカードを通さなきゃ、雨にぬれ
冷たい雨が僕の眼の中に入る
会社のことなんか何も見えなくなる
それはいいことだろ

行かなくちゃ、会社に早く行かなくちゃ
行かなくちゃ
行かなくちゃ
行かなくちゃ
行かなくちゃ
行かなくちゃ

行けない

シュウマイ弁当



新横浜から昼時に新幹線に乗るときには、必ず崎陽軒のシュウマイ弁当を買う。私としては、駅弁のベストワンは今のところシュウマイ弁当である。特に横浜駅や新横浜駅で買うなまあったかいやつが最高である。


何といってもいいのがご飯である。なんだシュウマイじゃなくてご飯かよ。そういう向きもあるが、とにかくこのご飯がうまい。俵型の8ブロックからなる黒ゴマが乗ったやつである。
何がいいかというと、硬めのご飯が好きな私にぴったりなのである。だいたい駅弁のご飯は柔らかすぎてだめなのだ。さらにこれをひと俵毎に箸で取るようにすると、米粒が弁当箱に残らず、きれいに食べることができる。


それからシュウマイ。からしをたっぷり目で、醤油を少しというのがよい。醤油をつけずにからしだけで食べていた時期もあるが、やはり醤油がちょっとあったほうがよい。めやすはご飯ひと俵につきシュウマイ1個である。ご飯とシュウマイは別々に味わうのが好みである。シュウマイは、ノスタルジアの味がする。
シュウマイ5個なので、残り3俵をほかのおかずで食べる。


たけのこの煮物をシュウマイの合間に入れる。生姜も間に入れるのに最適である。切り昆布は、ご飯がもう2俵あったら食べきれるが、全部食べるにはちょっとしょっぱい。ご飯の梅干しもひとかじり、全部食べるのは少々きつい。ここがシュウマイ弁当唯一の弱点か。このたけのこ、生姜、梅干しでご飯ひと俵。


マグロの照り焼き、というか醤油漬焼きというか、これがまたご飯に合う。これを4分割くらいで、2俵のご飯とともに食べる。これはご飯と一緒に口に入れる。至福の時である。だいたいシュウマイ3個食べたら、マグロである。


から揚げは常に皮つきである。皮と肉の割合にばらつきはあるが、皮の割合が多いのが私の好みである。


卵焼きとかまぼこは、口がしょっぱくなってきたら食べる。蒲鉾は真ん中あたり、卵焼きは最後に食べることが多い。


最後はあんずの干しもので仕上げだ。この最後の甘いものがまたいいのだ。お茶は番茶に限るが、ペットボトルの番茶というのはなかなか見つからない。たいがいはおーいお茶か何かである。


http://www.kiyoken.com/products/obento/shiben.html

コップの中の嵐

しょせんコップの中の嵐。
ばかばかしい争いごとは止めよう。

できたことを整理する。

アウトカム基盤型プログラム
形成的評価

50回分のグループ学習のプログラム
3週間のオリエンテーションプログラム

学生向け1泊2日の研修プログラム

50本のe-learning教材

定期的な振り返りの方法

外来研修の定形化

これくらいできればもういいだろう。
もう十分だ。

私自身がいろいろまとめることができただけでも十分価値があった。
それを十分利用するこのはこれからのことだし、もっと広い範囲で使ってもらえるようにするチャンスだ。コップの中に入れておいても何の役にも立たないし、わけのわからない嵐でかき消されるのが関の山。

2008年4月19日土曜日

あほらしいことばかり

あほらしいことばかりである。わざわざ人の足を引っ張るようなやつらがいる。一見聖人君子みたいなことをいうくせにである。
組織の中で生きるのは無理だな。
ただどこもかしこも全部組織だ。家庭だって組織だし、夫婦だって組織だ。でもそれくらいの規模の組織なら自分にも少しは何とかなる。

今の組織はもうでかすぎてとても手に負えない。組織の維持が手段でなく目的になってしまう。それもよくありがちなことだ。今の組織にしがみつくのはばかばかしい。もう少し小さい組織で、もうちょっとまともなトップのもとでやれればいいんだけど。

まあまた新しく始めるんだ。もっと良くなるかもしれない。

100年たてば皆わかる。

相変わらず小島信夫の小説は面白い。やめられなくなる。

2008年4月10日木曜日

2008年4月6日日曜日

マテリアルと超システム

郡司ペギオのいう「マテリアル」と多田富雄のいう「超システム」はほとんど同じことか。

池田清彦のいう、コトバの形式と生命の形式が同じというのも似たようなことなのか。

あるいは養老孟司がいう「脳化」というのは、脳で認識する以上、コトバも生命も社会も、脳を介した共通のルールで見ることしかできないということか。あるいは逆に、脳は、世の中の反映の一部にすぎないということか。

世の中の写像が脳の中にあるのではなくて、脳が世の中の写像なのかもしれない。

脳は「超システム」の一つにすぎない。
脳の「マテリアル」としての側面。

病気も病気の人も家族も地域も、当然「超システム」である。
病気、病人はマテリアルだ。

2008年4月5日土曜日

4月5日

生命の意味論

スーパーシステム
生物のルールと世の中のルールは同じ
単なるアナロジーでなくて

閉じながら開かれた系

2008年4月2日水曜日

4月2日

多田富雄 免疫の意味論

自己と非自己の境界はあいまいだ。
自己とは自己を作り続けるシステムだ。

免疫の世界を言葉で表現することは、生命そのものを表現することにだぶる。そして多分社会を表現することにも。

4月1日 第二幕

エイプリルフール だからといって特別なことはない。どうせいつものように嘘八百


ショーケン読んだ。


前半は一気に読んだ。ワイドショーネタだからか。
後半はきつい。最後が仕事をくれみたいな感じなのはどうか。
それがよいのか?


腹が出るのが心配で、がんになるのが心配で、これから第二幕。どんな二幕か、ちょっと興味がある。

で、私も第二幕?

へき地診療所を離れ、知らないうちに、5年が過ぎた。そう書いて、いきなり行き詰る。

5年」と書くことにどういう意味があるのか。「過ぎた」と書くことに何の意味があるのか。そもそも、本当は「知ってるうちに」である。「知らないうち」なんて真っ赤なうそである。どうしてそんなうそを書くのか。そんなうそに何の意味があるのか。
再び「書く」と決めた以上、こういうことにまでこだわる。「書く」ということ自体を見直さなければ、「再び」書くということを、正当化する理由が見つからない。
「再び」書くということは、以前に書いたということである。そして、それが一度終わったということである。そして、再び書くことを「決めた」とはどういうことか。「決める」なんてことがそもそも可能なのか。ただ再び書いているだけではないないのか。わざわざ、再び書くと「決めた」と書かなければいけない理由はどこにあるのか。

どうしても行き詰る。とにかく行き詰る。「行き詰る」と書きながら、まだその先を書こうとする。そして、実際に書く。別に行き詰ってはいないことがすぐわかる。書くくらいなら、なんだって書いてやる。
「なんだって」、これもうそだな。どうしてまたこんなうそを書くのだ。

再び、「再び書くと決めた」と書く。一度目の、「再び書くと決めた」、と何が違うのか。そこである。問題は。

時は流れ、私は残る。一度目の二度目も同じであれば、そう言っていいかもしれない。しかし、一度目と二度目は違うのである。「私」は残ってなんかいない。「私」も流れる。だから、こうして、再び、書くと、決めた。