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2024年3月11日月曜日

言語の本質 ことばの持つ身体性、記号接地問題

  今回もまた言語学から医学情報を読み解いていく続きである。前回、データと事実には大きなギャップがあり、データとその解釈にもさらに大きなギャップがある点を指摘した。そして、データもその解釈も、ことばや数字によって表される。ことばを使う以上、言語学が重要で、その文節の恣意性を認識することが助けになるというのがここまでの要約である。

そこで今日も言語学である。ただソシュールから離れて、むしろソシュールとは真逆の考え方ともいえる言語学に沿って、身体性という視点でのデータ、情報とことばの違いについて、いろいろ考えてみたい。今回のもとになった本は「言語の本質:ことばはどう生まれ、進化したか」1)である。

ソシュールの言語学では、「文節の恣意性」とともに「対応の恣意性」ということがある。例えば「いぬ」ということばの文字の並びと実際の犬の間には何の関連もなく、恣意的に対応しているだけということである。

この「対応の恣意性」に対して、痛みに関する「しくしく」とか「きりきり」というようなオノマトペは、その文字の並びと実際の痛みが単に恣意的に対応しているというよりは、実際の身体の痛みの経験と文字の並びに関連があるように思われる。ここには対応の恣意性以外の要素がある。このことをもう少し一般化すると、ことばの「身体性」ということだが、ことばだけで知っていることとばだけでなく、身をもって経験として知っていることばがあるということでもある。今回はこのことばの「身体性」をキーに、マスクの効果についての情報について考えてみる。

たとえば「マスクの効果についてはランダム化比較試験と観察研究を合わせたメタ分析で統計学的に有意な効果が示されている」という「ことば」の身体性についてである。ここに身体性はない。実際の効果との間に恣意的な対応があるにすぎない。医学論文にしろ、生データにしろ、情報の受け手の経験とは遠いところにある。実際の研究に参加した人でさえ、ある人はマスクを着けても感染し、ある人はマスクを着けなくても感染せずという部分が必ずあり、「統計学的に有意な効果」と真逆な身体的経験をしている。ことばと身体には関連があるというより、対応すらない。ここにあることばは、身体性があることばに対して、単なる情報に過ぎない。この身体性がある「ことば」と身体性を欠く「情報」を対比しながら、この先を進めよう。

多くの「情報」はことばを使っていながら、身体性をもたない。身をもってわかるということがない。しかし、「情報」に身体性がないとしても、この情報を自分の身に近づけないとうまく使えない。身体性があってもなくても、情報で使われる「ことば」=「記号」を身体に「接地」しなければいけない。これが「記号接地問題」である。

前回まで取り上げてきた言語の恣意性は、「身体性を持たないことば」の性質そのもののように思う。恣意的であるがゆえに「接地」しないことばである。恣意性の認識だけでは問題は解決しない。恣意性を認識したうえで、恣意性によって「接地」困難な「情報」をどう「接地」させるか、それが問題である。

 それでは具体的な話題に入ろう。マスクは無効と判断するという「接地」と、マスクは有効と判断する「接地」の違いがどこにあるのか。あるいはこの「接地」は見せかけで、本当は「接地」などしていないのかもしれない。どうもそれが現実である気がする。どちらも情報そのものを「接地」させて判断しているというより、その他の身体的経験によって、「接地」させているのではないだろうか。そうだとすると「情報」そのものの恣意性は大した問題ではないかもしれない。真の問題は「情報」を基に判断しているように見えて、その背後で動いている、個別の経験、状況ではないか。それこそ「情報」の真偽とはまるで対応しない恣意的な判断かもしれない。

参考文献

1)今井むつみ、秋田喜美 言葉の本質:ことばはどう生まれ、進化したか」 2023 中公新書